Barrel Valley Praha&Gen(バレル・バレー プラハ&GEN)バレルバレー(チェコ村)[ 公式ホームページ ]

河内源一郎物語

焼酎を造る際に必要な「河内菌白麹」の発見者であり、近代焼酎の父と呼ばる河内源一郎の物語です。

誕生


河内源一郎は明治16年(1883)4月30日、当時の深安郡福山町(現在の広島県福山市)の吉津町に生まれた。

生家は醤油製造業で、源一郎は幼少から麹(こうじ)醪(もろみ)の中で育った。家業を継ぐ意志からか明治37年広島県立福山中学校(現誠之館高)《第18回生》を出て大阪高等工業醸造科(現大阪大学発酵工学科)に学ぶ(明治42年卒)

卒業後大蔵省の役人となり、熊本税務監督局管下の鹿児島・宮崎両県の技術指導と監督を担当する鹿児島工業試験場の技師として赴任した。 ここから麹の神様としての第1歩を踏み出すこととなる。

麹研究のきっかけ

赴任後間もない年の秋、県内のある焼酎工場を視察したとき「今年は残暑が厳しく、せっかく作った焼酎が腐り歩留まりが悪いうえ、味も良くない」との相談を受けた。 それまでの源一郎は主として醤油製造に力を入れていたが、このときから焼酎製造に目を向けるようになる。そこで考えついたのが暖かいところで年中作られている沖縄の泡盛であった。早速種麹を取りよせ、本格的な研究を始めた。26歳のときであった。

~当時の焼酎製造は”醪とり焼酎づくり”といわれ、清酒と同じ黄麹を米に加え発酵させてモトをつくり、これを甘藷(かんしょ、サツマイモのこと)に仕込んで本発酵させて醪をつくり、これを蒸留器にかけて出た原酒に水を加え、焼酎として市中に出していたのである。~

泡盛の種麹は黒麹で、それまでの黄麹とはだいぶ性質が異なっていた。源一郎は毎日顕微鏡にかじりつき、試験管やピンセットを手に研究を続けたが、相手はカビである、絶えず増殖し続けるため一瞬の油断も許されないうえ、温度・湿度が大きく作用するため、この頃には麹菌の入った培養基を肌身はなさず持ち歩くようになっていた。

~このことは源一郎の死まで続き、大正5年(1914年)1月岡山県笠岡から嫁いできた貞代(昭和46年2月、86歳で没)は、いつも麹菌の入った培養基を持っている夫にびっくりしたという。~

明治43年(1910年)、泡盛菌から醪とり焼酎に適した種麹菌の分離に成功、これには泡盛黒麹菌=学名アスペルギルス・アワモリ・ヴァル・カワチ=と名づけられた。この麹菌は黄麹の欠点とされた腐敗が極端に少なく、これによる焼酎の収得率は大いに改良向上した。この後も麹菌の研究はさらに続けられた。

麹研究2ndステージ編

大正13年(1922年)、いつものように顕微鏡で泡盛黒麹菌を覗いていると糸状に伸びたカビ群の中に何か異色のものを見つけた。この菌は他の菌とは違っており、これを分離し育てていくうちに泡盛黒麹菌より能力が安定していて黒麹のように作業上の不便さ(菌が飛びはねて衣服などを汚すこと)もなかった。さらに麹づくりが容易で原料の甘藷の分解力が強く、焼酎の品質も一段と向上することが判った。

そして純粋分離に成功、河内白麹菌と名づけ「泡盛黒麹菌の突然変異によって生じたもの」として学界に発表したが、当時の学者は無視し、認知されたのは昭和23年(1948年)京都大学教授北原覚雄博士(のち東大微生物研究所長)によって初めて立証されたのである。発見から20数年経っていた。

ただ、せっかくの河内菌白麹も地元ではあまり歓迎されなかった。先の泡盛黒麹菌で十分収得率が高まって安定操業していたからである。しかし、こうしたことが後に源一郎を退官させ、自ら河内菌白麹の製造に向わせるきっかけにもなった。

麹の研究、そしてみずから製造へ

昭和6年(1931年)、48歳のとき職を辞し、翌7年(1932年)、鹿児島市清水町で焼酎用種麹の製造販売を始めた。菌種は泡盛黒麹菌、河内菌白麹、黄麹を改良した強力黄麹である。

~堅苦しい役所勤めから解放され自由の身で研究が続けられることで、源一郎にとってはこのときが一生のうち一番幸せの時代であったといえよう。~

麹菌の評判は北九州の利用者から徐々に高まって地元に及び、普及と販売は軌道に乗った。そして昭和14、5年頃には朝鮮、満州にまで広がって醪とり焼酎づくりの指導によく出張していたという。

鹿児島市も福山と同じく昭和20年(1945年)6月に米軍の空襲を受け、工場も全焼したが、源一郎は家財を一切持たず種麹の原種だけを防空頭巾に包んで防空壕へ待避した。 その後戦災後の混乱のため、21年に工場を再開するまで、よき理解者であった伊集院の窪田酒造に疎開、ここで製造を続けた。

引き継がれる河内源一郎のDNA

終戦1~2年後から胃を悪くしていたようで衰弱し、昭和23年(1948年)3月31日手術のための入院予定日に自宅の床で目を閉じた。しばらくして妻の貞代が源一郎の着衣の乱れを直そうと胸もとを合わせたとき、ふところに純粋分離中の本格焼酎麹菌と蒸し米の入った試験管培養基、シャーレ培養基が5個あるのに気づいた。敗戦後の物資不足の折柄、麹菌を純粋分離のための精巧な恒温装置が無いため自らの体温で分離していたのである。

鹿児島の焼酎を日本の代表的蒸留酒とすることを目指して、麹菌の研究に精魂を傾けた福山出身のカビ学者、河内源一郎はこうして不滅の業績を残したが、生涯一度として褒賞を受けることはなかった。一貫して見えるのは、源一郎の研究は「学問」のためのものではなく、常に事業者、焼酎製造者の立場を考えた親身のものだったということ。

現在わが国の本格焼酎は、清酒醪を蒸留したもの、粕取り焼酎以外はすべて河内菌白麹、河内菌黒麹が使用され、乙類焼酎の8割を占めている。

出典:『文化財ふくやま(第39号)』43頁、土肥勲、福山市文化財協会(2004年5月20日)

URL :
TRACKBACK URL :

コメントはこちら

*
*
* (will not be published.)

CAPTCHA


Facebookでコメント

TEL:0995-58-2535

営業時間:8:30~18:00(年中無休)

メルマガ登録

Return Top